東京に出て間もない頃、大学もあった世田谷に住んでいた。

大学に入って軽音楽部に入り、パンクな先輩から下北沢という街の存在を教えてもらった。
下北沢の町に行ってびっくりした。浜松では探さなきゃないくらいのライブハウスが、堂々と町の中で存在していたのだ。とにかく下北沢を一人で歩きまわって見つけたライブハウスが下北屋根裏だった。

一人で階段を上がって、チケットをとりあえず買って中で初めて見たバンドが中国釣具店だった。後にブッキングで何度か一緒にやらせてもらった。
とにかくそのステージに早く立ちたくて、SUBEを加入してSHACHIを再始動させてブッキングライブに出た。

そこで知り合ったバンドがELECTRIC EEL SHOCKやpOOPERsCOOPERcENTREだった。
特にプーパーは確かHIDETAが気に入ってデモテープを貰ってきてその後ちょくちょくブッキングで会うようになった。

メンバー三人ともすごく良くしてくれた。ゴローさんとトーブさんはうちらが使っていたスタジオの店員さんだったってこともあって急激に距離が近くなっていったよう気がする。
SUBEがトーブさんの後輩だったりしたのもあるかな。

そこで人生を変えてくれたと思うのがベースのサンペーさんかな。

すげー不器用な人なんだけど、すげー器用に見えて、びっくりするくらいコネクションを持っている人だった。ひとつ上の先輩だったけど、すごく上の先輩みたいなオーラが出ていた。あの当時ロリータ18号とかスネイルランプとか雲の上の存在だったけど、そんな人達と普通に会話しているサンペーさんがすごく羨ましかったのを覚えている。

サンペーさんの作る歌もすげー好きだった。影響を受けたと言っても過言ではないだろう。プーパーなくしてSHACHI在らずって感じだ。

そんなプーパーと一緒にスプリットアルバム「犬御膳」を作ることになって、ジャケットの制作やCDのプレスなどに携わることになった。

当時アルバムをリリースしているバンドなんてホントにすごいバンドだったので、一歩先にアルバムをリリースしていたプーパーからレコーディングや制作について色々学んだ。そのノウハウをひとつずつ丁寧に教えてくれたのもサンペーさんだった。

その時にIllustratorとかを教えてくれたのはTraditional boxのイシハラだった。当時はマウスマストってバンドやってた。よくイシハラの家にサンペーさんと一緒に通ってた。

初のレコ発ツアーってのに連れていってくれたのもプーパーだった。

その後また人生を変えてくれた人ハンヂさんを紹介してくれたのも、下北の屋根裏といい関係になれた間にいた人も全部サンペーさんだった。

プーパーが解散してから他に色々とバンドをやってたんだけど、いつの間にか前線から見えない場所に行ってしまった。たまに連絡はしてたんだけど、忙しいのか会えることは殆どなく今に至る。

梅ケ丘で毎日のように会ってたあのころが懐かしい。
「インディーズ」って言葉をきちんと教えてくれた人はサンペーさんかな。