法の下の平等ってことばを考えた夜
前夜のインラジの後の木曜日は嵐が去った翌日のような平和な朝を迎える。
10月に入って東京の天気はようやく秋っぽくなってきて、半袖?長袖?と着る服を迷うくらいの気温の感じ。
昼は米も炊いて買っておいた餃子でしっかり目のランチ。
夜は新宿へ友人の重めな相談ごとを聞きに行ってきた。
今年は当事者同士じゃ解決できなさそうな重めな相談ごとを聞く機会が結構ある気がする。
昔の時代なら本人たちでどうにかなるんじゃないの?ってライトなトラブルも、令和の世の中になってくると色々複雑で間違いなく俺なんかの素人ではなく、弁護士とかが判例をもとに解決しなければならないケースが増えたと思う。
情報が溢れ、多様性を尊重するのだからそこまでセットだ。
しかし難しいのが”平等”って言葉で、悪と善の関係であれ裁きの法は平等になる。
まぁ悪からみれば相手方が悪なわけだし。
ただ、どう考えてもおかしいことですら、”証拠がない”と誰も信じてもらえない。よくテレビドラマとかであるもどかしい裁判シーンなんかがわかりやすい。
そんなご時世だし、今は便利なスマホもあるわけだから、自分があれ?って思うことはスマホにどんどん”記録”していくことが大事なのかと。
というか悪い大人が多すぎる社会もどうかと思う。
自分の欲求やお金を満たすために、相手のことを何とも思ってない愛のない人が多すぎる。弱者を嗅ぎ分けて搾取する悪魔みたいなやつが多すぎる。
これもまたあふれる情報や多様性の産物だろうけど、とにかく弱者に対しての環境が悪いと感じる世界。
「平等」って難しくて、強者と弱者に対し平等に法律というチカラを与えたら、強者は強者のままなんよ。それって平等なん?って疑問。愛のない平等は不公平なんじゃないかなと。
俺の腕につけてるトリコロールの色は意味があって、「自由」「平等」「愛」の3つ。
“法のもと”ではなく「愛のもとの平等」というのがしっくりくる。
昨日はそんなのを少し考えた夜だった。正直者が報われる良い世界がやっぱいいな。
何よりそんな世界だからこそ一人で抱え込まないで、相談してくれればいいよって思う。弁護士みたいに裁判じゃ戦えないけど、気持ちが折れないように支えることならできると思う。
そんな俺がいるのがライブハウスなんだなーと。